昭和41年9月22日 朝の御理解    (末永信太郎)   №41-106





 私達がおかげを頂かしてもらえる道を、段々開けて行き、(極めて?)行き、おかげを頂いて行かなければならんのですが。おかげの道を広げて行くとか、おかげの道を進めて行くという、そういう信心をさせて頂かんと、おかげを頂けれるという確信が持てん。ね。
 信心しておるから、そういう道を(語ったり?)、そういう道を広め、または、道をつけて行きよるということには限らない。ですから、どういう道を私どもが開いて行かなければならんか。また、どういう状態であるならば、開いておるのかということを分からせてもらうんです。そこんところを、一つ、その、徹底して、そこんところに焦点をおいて行かなければならん。
 昨夜の御理解に、信心しておって変わったことが起こってきたら、おかげと心得て信心せよ、と。信心しておって変わったことが起こってきたら、おかげと心得て信心せよ、と。ですから、私どもは、それをおかげと頂ききらんところにです、そのおかげを、それをおかげとして頂かして頂けれるところまで、信心を考えて見る、思うてみる。そして、それを行じてみる。そういう道をお互いが歩いておるかどうかという事なんです。ね。
 ただ、その、信心しておって、変わったことが起こってきた、変わったことが、有り難いことなら良いんだけれども、やはり、痛い痒いのことであったり、困ったことであるような場合がある。ね。ほれで、その、困ったことであろうが、痛い痒いであろうがです、おかげと心得させて頂けるところまで、信心は進めて行かなきゃならんという、そういう道を私どもが歩いておるなら、間違いない。
 天地書附に、生神金光大神 天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり。本当に、どのような場合でも、自分の心を一心に願うことは、和賀心である、和らぎ喜ぶ心であるということを願っておるかどうかということなん。そういう、例えば願いを皆さんが持っておるなら、もう、絶対の道が開けて行きよると言うて、間違いないです。ね。
 それは、難儀は難儀と感じておってもです、それは、実を言うたら難儀じゃないのだ。信心しておって、こういう難儀なことが起こって来たじゃなくて、信心しておってから起こってきたのであるから、それはおかげと心得させてもらう。それをおかげと分かるところまで、どういう信心させてもらや、こんなことがおかげと頂けるじゃろうかと思わせて頂くような信心ならば、おかげの道をいよいよ進めて行きよるのです。
 どのような場合でもです、一心に、どうぞどうぞと言うて願いよることがです、どうぞ私の心の中に、どういう中にでも、喜びの心を頂かして下さいと言うて願いよんならばです、もう、絶対の広い大きな道に、おかげの道に繋がるということなんです。ね。信心の道を、私どもがいよいよ進めて行き、それを広めて行きさせてもらうということは、そういような、私はことだと、こう思う。
 それを、ただ、どうぞおかげを頂かせてください、おかげを頂かせて下さい。なるほど、それでおかげを頂こうけれども、それが、絶対のおかげの道に繋がっておるという事ではないということです。ね。私どもはその問題をです、ね、その事柄を、いわゆる、先ほども申しますように、教祖の神様が仰っておられます、信心をしておって変わったことが起こって来たら、おかげと心得させて頂けれる、おかげと心得て信心せよと、こう仰る。
 ところが、実際、おかげと心得きらん。ね。で、これをおかげと頂かせてもらうためには、どういう修行をさせてもらったならいいだろうか。これをおかげと分からせてもらうためには、改まらなければ、そういう心は起こらんのじゃないじゃろうか、という風にです、そういう風に心を砕いておるとするならば、これは、もう絶対、おかげの道を進めて行きよることなんです。ね。
 このことをです、どうぞ、合掌して受けさせて下さい。どうぞ、一心に願っておることは、このことを和らぎ喜ぶ心で頂かせて下さいと言うて、私どもの心の中に祈り願っておるとするならば、それは、もう絶対の道が頂けて来る、もう、前提です。もう、その道に出てるです。その道を進めて行きさえすれば、おかげが受けられるですね。どうぞ。